2017年01月12日

はじめに

30年以上、多くの方々から聖書やキリスト教に関する質問をお聞きしてきました。その中には、ちょっとしたキリスト教の常識的な質問から始まって、深刻な問題も多くありました。そのつど考えさせられてきたことは、それらの疑問に答えるパンフレットのようなものがあれば、キリス教に関心を持たれる方が誰に聞くこ
となく自分の問いに対するヒントになるのではないか、更にはキリスト教ガイドにもなるのではないか…と思ってきた次第です。
これが今回「キリスト教Q&A」作成に至ったきっかけです。
どうぞ気軽にまず自分の関心のあるところからお読み下さい。
少しでもお役に立てば幸いです。

金剛バプテストキリスト教会 
牧師中西正夫
posted by kbccQandA at 16:21| キリスト教

問1・ クリスマスってサンタクロースの誕生日ですか

クリスマスはサンタクロースの誕生日ではなく、イエス・キリスト の「誕生を記念する日」です。キリストが誕生されたことは確か なことですが、その日がいつかについては、歴史的に明確では ないのです。しかし伝承でそう伝えられて今日に至っています。
クリスマスという意味は「クリス」がキリストの意味、「マス」は ある教会で「ミサ」というように「礼拝」を意味します。
posted by kbccQandA at 15:44| キリスト教

問2・ 「アーメン」ってどんな意味ですか?

この「アーメン」とは、キリスト教会が売り出した「ラーメン」の新製品では勿論ありません。あなたが教会に行かれますと、祈りの最後に「アーメン」と唱えることをお聞きになるでしょう。この言葉はヘブライ語で「真実」という意味を持っています。つまりクリスチャンが神に祈りをささげるとき、最後に「アーメン」と唱え、「今祈った祈りは私の心からの願いです」という意味を込めて唱える言葉なのです。
posted by kbccQandA at 15:30| キリスト教

問3・ 私は信仰心がありませんが、まじめに生きていればいい のではないでしょうか?

確かにまじめに生きるというのは良いことですが、ただ「まじめ」と言われる時、何を基準にして判断するかということです。
また「良心」が有ればそれでいいではないかと聞くこともあります。その場合も「良心」は人によって変わります。例えば、他人の悪口を言うときに良心の呵責を感じる人もいれば、全く感じない人もいます。要するに「まじめさ」「良心」も物差しが人によって違うということです。だからこの違いが時に争いにもなり、自分に自信が持てない不安も出てくるのです。だから客観的な基準が必要になってきます。人類の歴史で、広く深く長く、良い影響を与えてきた基準を見いだすことが求められるのではないでしょうか。聖書はそういう点で時代が変わろうと、思想が変わろうと、人類に不変の正しい基準を提供してきたのではないかと思われますので、ぜひあなたの生き方の参考にしていただければと思います。
posted by kbccQandA at 15:29| キリスト教

問4・宗教は違っても、結局はみな同じ様なことを言うのでは ないでしょうか?

宗教の問題になると次の歌が引き合いに出されます。
「わけ登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」
どんな宗教でも、結局到達するところは同じだと人は言います。
確かに宗教であれば共通している部分があるだろうと思います。
そこで考えたいことは、宗教を判別する中で一体「何からの救い」を強調しているかということです。つまり不幸をもたらす真の原因が何であり、何が幸福と考えているかが問題になります。
ある宗教では、病や貧しさか或いは悪い環境や性格的欠点が不幸の原因だと考えるのですが、聖書ではかえって病も恵に変えられ、人生の逆境も祝福に変えられることを教えています。そ
れでは何が不幸の原因かと言いますと、人間の内に宿っているエゴイズム、自己中心に原因があると教えています。聖書はこの「神と人を無視する自己中心」という生き方のことを「罪」と教えています。現代の忌まわしい暗い事件を見ると、自己中心に拠っていることを認めざるを得ないのではないでしょうか。またこの罪が家族や友人との関係を不幸にするのです。ですから聖書はこの「罪」からの救いを教えているのです。その罪からの救いということになると、ちょうど泥棒が泥棒を救えないのと同様
に、罪人は罪人を救えません。罪のないお方だけが罪人である人間を救いうることになります。そして罪のないお方はイエスキリストしかいないということです。(問16参照)
posted by kbccQandA at 14:31| キリスト教

問5・ クリスチャンは神を信じていると思いますが、それは古 い時代の考え方で、元々「神」は人間が考え出した思想 ではないでしょうか?

この世には二つの神が存在します。一つは人間が作った「神々」です。その背景には人間が何らかの救いを求める願いというのがあり、それに応じて様々な神々が作られてきました。社
にまつられたり、人間の技巧で偶像が作られ、拝まれたりします。
あなたが言われている人間が作った思想ではないかというのもこの点からうなずけるのです。しかし聖書が教えている神は、人間を造られた神です。つまり天地万物の創造者である神なの
です。人に命を与え今もあなたを生かしておられる神なのです。
「人間が作った神」と「人間を造られた神」…この違いは極めて大きなものです。そうは言っても簡単に神を信じ得ないものを人間は持っていますが、だからといって神の存在を一笑に付してしまうことだけは避けたいと思うのです。


posted by kbccQandA at 14:14| キリスト教

問6・ 神の存在をどの様にして知ることができますか?

芸術家がそこに存在していなくても、その作品から作者である芸術家の存在を信じることができます。それと同じように、神は御自分の存在をその作品に示しておられます。神の作品とは
壮大な宇宙であり、美しい自然であり、生物であり、そして人間です。この宇宙を見つめるときだれもがその壮大さ、緻密さ美しさに心打たれます。更には星々は整然とした法則をもって運行し、木々や花々は季節に従って美しく営まれています。この宇宙や自然が、偶然で存在したとするなら、この見事な法則通りに動く姿を偶然だけで説明できるでしょうか。聖書はこう語っています。
「神について知り得ることは、彼ら(人間)に明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の目に見えない本姓、即ち神の永遠の力と神性は、創造されたときからこのかた、被造物(天地万物)によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1:19.20)

posted by kbccQandA at 13:15| キリスト教

問7・ 私はキリスト教の教えには素晴らしいものがあると思い ますが、目に見えない神がおられるということがどうし ても信じられないのですが…

私はあなたのご両親にお会いしたことは一度もありませんがご両親の存在を信じています。あなたが存在しておられることがご両親の存在を証明する何よりの印です。確かに目に見えな
い神の存在を信じなさいと言われても、人は容易に信じ得ないものを持っています。無限の神が有限な人間に理解できるはずはないのかもしれません。しかし神は有限な人間に神を知ることができる道をお示しになりました。それがイエスキリストです。
聖書にこうあります。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神(キリスト)が、神を解き明かされたのである」
(ヨハネ1:18)
posted by kbccQandA at 12:17| キリスト教

問8・ 神が愛ならどうしてこの世に不幸があるのですか?

これは「苦難」に関する問題で、昔から宗教家や哲学者達がこの難問に取り組んできました。ただ言えることは実際に苦しんでおられる方にとって知的な理解だけでは解決にならないということです。聖書にでてくるヨブという人は人格的にも信仰的にも立派でした。しかしその彼が苦難にあいます。一夜にして財産、子供を失い、更に業病に襲われ苦しみます。この理不尽な苦しみに対して彼は「なぜ自分が苦しまねばならないのか」と神に訴えます。そして長い試練の後、ついに夜明けを迎えるのです。生ける神に出会う経験をするのです。このとき、彼の疑問は、それが答えられたというより、その疑問の心自身が溶かされ、疑問そのものが消え去ります。こうして彼はこの世における苦しみの謎を、神ご自身の解決にまかせることができたのです。そしてもう一つお伝えしたいのは、人生の矛盾を経験するとき単に理屈では解決できません。不公平だと思う人生を歩んで来られた方にお勧めしたいのです。あなたは人生そのものに絶望しておられるかもしれませんが、イエス・キリストというお方を紹介したいのです。神の御子であるにもかかわらず、その生涯は矛盾の連続でした。神の御子なのに馬小屋で生まれ、罪がないのに罪人として裁かれ、その生涯全体が全人類の罪の責任を身代わりに負う苦しみの連続だったのです。そして救いの道を開いてくださったのです。もしあなたが、最愛の人を失い、人生の矛盾に苦しんでおられるなら、どうかイエス・キリストを知っていただきたいのです。そこに単なる教えや悟りではなく真の救いがあるでしょう。

 

posted by kbccQandA at 11:20| キリスト教

問9. 私は生まれた時から障害があり悩んできました。なぜ自 分だけ不幸なのか、また最近ある宗教の布教師が来て 「その障害には先祖の悪い霊が取り憑いている」と言わ れ、大変ショックです。私の生きる道はあるのでしょうか?

この文章の中だけでもあなたが随分心ない言葉で傷つき大きな苦悩を感じてこられたことを思い、その心中をお察しします。世にいう因果応報の間違った思想でどれほどの多くの方が苦しんでこられたかと心痛みます。聖書の中にこんな話が載っています。生まれながらの盲人を見てキリストの弟子達が尋ねるのです。「この人が盲目に生まれたのは誰が罪を犯したからですか。この人ですか。それとも彼の両親ですか」その時キリストがこう言われたのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです」(ヨハネ 9:1-3)神の業とは、神を信じて生きることの素晴らしさがこの障害を通して体験する、という意味です。どうぞ聖書が語る神の愛と救いをお知りください。心からお祈りしています。 

posted by kbccQandA at 10:26| キリスト教

問 10. 何のために生まれてきたかわからない

この質問は生きる上でとても大切な問題です。でも多くの方はこれが解らないまま生きておられるのではないかと案じます。これを知るためのヒントを申し上げますと、例えば目の前のコンピューターが何のためにあるのか、どの様な働きができるのか、について最もよく知っている人は、そのコンピューターの作者でしょう。それと同じように人間の生きる目的については、人間に命を与えた作者に聞くのが一番賢い方法だと言えます。では人間の命の作者は誰でしょうか。両親ですか。両親は産んだのであって、生かしたお方ではありません。聖書によれば、命の作者は創造者である神なのです。その神は聖書を通して人間の生きる目的を示しておられます。ですからこの質問の答の鍵はあなたの誕生日に命を与えてくださった神に聞く(聖書に聞く)ことにあると言えるでしょう。

 

posted by kbccQandA at 10:23| キリスト教

問 11. 人生の目的は何ですか

クリスチャン作家であった三浦綾子さんは第二次世界大戦中熱心な小学校教諭でした。軍事教育に心酔し御国のため生き、死ぬことこそ本望であるという強い目的意識を持っておられた方です。しかし敗戦で今まで教えてきたことが間違いであったと分かったとき、生きる目標を失い13年間もカリエスで入院されることになったのです。生きる目標をどこに置くかは非常に大切です。でも「人生の目的」とは何でしょう?仕事、結婚、子育て、マイホーム建設...それらは目先の目的であって終生持つべき「人生の目的」ではありません。「人生の目的」とは仕事があろうとなかろうと、何歳になっても持っているべきものだからです。では「人生の目的」とは何か?それは「創造者である神様が意図された自分自身を自分の持ち場、立場で生き切ること」ではないでしょうか。それを聖書は「神の栄光を現す人生」と語っています。人まねではなくユニークな自分自身を受容し自分自身を生きることは素晴らしい道なのです。そのためには自分は何者であり、どんな生き方をすればいいのか、神の御心を聞くために聖書に耳を傾けていく事から始まるのではないでしょうか。

 

posted by kbccQandA at 09:44| キリスト教

問 12. 人間死んだら終わりではないでしょうか。死後の世界な どどうしても信じられませんが...

この世を見ると矛盾や理不尽なことが横行しています。まじめに生きてきたのに報われなかったり、また結構ずる賢く生きている者が表彰までされて長生きしているとか、若くして難病に遭うとか...もしこの世だけが全てなら、この世は何と不公平な世でしょう。しかし聖書を見ると、死後来るべき世界があること、そして、この地上での理不尽、不公平の一切が正しく裁かれる世界があることを示しています。 

posted by kbccQandA at 09:41| キリスト教

問 13.聖書ってどんな本なのですか

先ず、そのユニークさを書いてみましょう。第一に、古代の本であるにもかかわらずベストセラーです。世界では年間五億冊も出版され、日本だけでも毎年五百万冊出版されている本です。教会は勿論のこと、学校やホテルなどにも置かれています。更には、翻訳数も群を抜いて多いのです。世界第二位の翻訳数を誇るのは「グリムの童話」ですが、これが約百カ国語に訳されています。ところが第一位の聖書は二千を越えています。これには部族の言葉も含まれています。そして今なおコミュニケーションが困難な民族や部族に対して命を懸けて宣教師達が翻訳を続けているのです。そんな本は他にありません。また、その影響の大きさです。聖書は国の憲法や法律を作る上で大きな影響を与えてきましたし、その他、教育、文化、芸術に多大の影響を与えてきました。一週間という生活サイクルも又聖書から取られた生き方です。また、聖書は千六百年の長きに亘って書かれてきた本です。普通なら時代も変わり、思想も変わるはずなのに、聖書の内容は「キリストによる人類の救い」で一貫しています。聖書にこう書かれています。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」(IIテモテ 3:15)

  

posted by kbccQandA at 08:43| キリスト教

問 14.科学と宗教とは両立するものでしょうか

科学と宗教が対立すると考えた時代がありました。例えば、現代では常識となっている「地球は回転している」という事を当時の教会は「太陽が昇っている」と反対したわけです。決して聖書がそう語っているのではなく、人間の独断的誤解から生まれた間違いであったわけです。ところで科学と宗教は、それぞれ異なった視点に立って探求するものです。たとえば、科学では私たちが経験できる事柄を扱い、観察や実験を通して真理を探求、解明して行くわけです。それに対して宗教は、私たちが経験できる事柄だけでは十分の説明できないことを認め探求していくのです。「死」という事で説明すると、科学では「死」は「生命活動の停止」と解釈するでしょうが、これで「死」について問題が全て片づくわけではありません。「死」の恐れや不安が生じるのが現実であるからです。こういう「死」の問題に関しては、現象面だけでは納得できず、もっと深い説明が必要となります。宗教とはこういった事柄を語っていくものです。

  

posted by kbccQandA at 07:44| キリスト教

問 15.聖書の奇跡は非科学的ではないですか

確かに聖書には多くの奇跡が記されています。自然法則を学んだ現代は、聖書は自然法則に反すると考え→そんなことは起こり得ない→だから聖書は真理ではない、と判断するかもしれません。しかし奇跡は「反」自然なのではありません。「超」自然なのです。自然界の法則が停止したり、破壊されたりするのではなく、それを超えた超自然的な力が働くとき、奇跡が起こるのです。しかし奇跡は全能の神の気まぐれで起こるのではありません。ある目的遂行のためになされるものです。その目的というのは、人間の救いということです。神は私たち人間の救いのために奇跡をなさいました。しかしこういった奇跡の問題は要するに、その人が目に見えることしか信じない生き方なのか、それとも見える現象を越えた世界があることを信じることができるか、という価値観の差が大きく影響してくるように思います。 

posted by kbccQandA at 06:45| キリスト教

問 16. キリストは神に近い聖人であったのではありませんか

釈迦、孔子そしてキリストを世界三大聖人と言われます。しかしキリストは単なる偉大な聖人ではないのです。もしキリストが神でなかったら、キリストは大ペテン師ということになるでしょう。論理が飛躍しすぎていると言われるかも知れませんが、決してそうではありません。たとえばキリストはこう言われました。「わたしと父(神)とは一つです」(ヨハネ 10:30)とか、「わたしは道であり真理であり命です」(ヨハネ 14:6)「わたしはよみがえりです。命です。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ 11:25)このような言葉は単なる励ましでは言いきれない内容です。そしてもしそれが嘘なら、キリスト教は歴史のふるいにかけられて、とっくの昔に葬り去られていたことでしょう。しかし今日、世界中のまじめな人がキリストを信じ、救いと希望を見いだすことを思えば、やはりキリストは単なる聖人ではないと結論せざるを得ないのではないでしょうか。 

posted by kbccQandA at 05:46| キリスト教

問 17.キリストの十字架に意味があるのですか

世界の教会の屋根には十字架が付けられています。礼拝堂の中にもあるでしょう。それはキリスト教の中心であるからです。けれども「十字架」は今でこそアクセサリーとして飾られていますが、二千年前は全く違った意味でした。それは最も残酷な死刑方法だったのです。それならば、キリストは大それた罪を犯したのでしょうか。いいえ。実際、裁判では罪のかけらさえ断定できなかったのです。ではその意味は何でしょうか。

 それは私たちの「救い」をもたらすものでした。先ほどの問4にあるように神から離れた「罪人」である私たち人間の「罪」の刑罰を引き受けて下さったお方が神の御子キリストであり、その罰を受けて下さった場所が十字架だったのです。ですからキリストのことを救い主と呼ぶのです。またそのように人間は神に立ち帰ることが求められています。

 

posted by kbccQandA at 04:48| キリスト教

問 18.キリストが復活したなんて信じられません

聖書の奇跡の中で、「キリストの復活」ほど信じられないことはないでしょう。ですからこの二千年の間、「復活」について様々な解釈がなされてきました。ある人は、弟子達の「作り話」ではないか、と考えます。つまりキリストの弟子達が自分たちの先生が死を打ち破って復活したというデマを飛ばしたというわけです。しかし、もしそうなら、世界中の人たちは嘘を信じ込まされて来たことになります。しかし、人間、死の時に多くの人々を騙して死んでいくことができるでしょうか。実際、筆者は牧師として多くの方の臨終の場面に立ち会って来ましたが、どの人にも共通していることは、死の前には心清くありたいと考えるものです。嘘をついて死んでやろうと考える人はいません。それに、ご存じのように初期キリスト教の弟子達は火あぶりや、獣に食い殺されたりする殉教死をしていますが、そのような苦難の中で、嘘で塗り固められたデマを飛ばして死んでいくことなど到底できないでしょう。 

またある人は現代風に、復活は事実ではなく「象徴」だと考えます。何かシンボリックな表現方法だというのです。しかし聖書は次のように語ります。「もし私たちがこの世にあって、キリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、全ての人の中で一番哀れな者です。しかしキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Iコリント 15:19,20)あのヘンデルのメサイヤで高らかにキリストの復活を歌うのは単なる儚い希望ではないのです。 

posted by kbccQandA at 03:06| キリスト教

問 19.聖書で人間が「罪人」と書いているのが腑に落ちません

確かに「罪人」呼ばわりされる筋合いはないと考える方も多くおられるでしょう。でもその罪の定義が違うのです。一般では「罪」を殺人とか盗みという事をイメージすると思います。しかしそれは刑法上の罪であって、聖書でいう罪は、関係上の罪なのです。もう少し説明すると、人間は両親を通してではありますが、神によって造られた存在です(問7参照)。けれどもその人間が神を無視し、否定したりして神との関係を持たない状態―これを「罪」と読んでいるのです。例えていえば、子供が親を無視し、否定して口も聞かないなら、これ程親にとって悲しく不幸なことはないでしょう。このように神との関係を持たない状態を、「罪」と読んでいるのです。 聖書では「罪」の言葉として原語(ギリシャ語)では「ハマルティア」といい、この意味は「的はずれ」という 。

意味です。つまり神という的をはずして生きている状態のことです。 

posted by kbccQandA at 02:50| キリスト教

問 20. プロテスタントとカトリックの違いって何ですか

もともと一つでしたが、380年にローマの皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としてから、徐々に信仰の命を失い、形式化が目立つようになってきました。そして中世になると教会の礼拝は当時の言葉ではなく古典で使われるラテン語でなされたり、罪の赦しを献金で買わせる免罪符を売るというような聖書から逸脱した教えが蔓延していったのです。ついに16世紀、カトリック司祭であったマルチン・ルターは聖書の教えから逸脱した教会のあり方を批判し、1517年、ウイッテンベルグの城門に「95の条文」を掲げ、「聖書に帰れ」という旗印の下にいわゆる「宗教改革」を断行していったのです。これがプロテスタントの始まりです。この運動に共鳴した人々がヨーロッパ各地に起こり、次々とグループが生まれました。カトリックからの弾圧があったためにひとつにはなれず、その地で生まれ育っていったので、プロテスタントには多くの教派がありますが、歴史の名残と言えるでしょう。いづれにしても、聖書から離れては信仰の命を失うことは目に見えています。 

posted by kbccQandA at 01:51| キリスト教