2017年01月12日

問 17.キリストの十字架に意味があるのですか

世界の教会の屋根には十字架が付けられています。礼拝堂の中にもあるでしょう。それはキリスト教の中心であるからです。けれども「十字架」は今でこそアクセサリーとして飾られていますが、二千年前は全く違った意味でした。それは最も残酷な死刑方法だったのです。それならば、キリストは大それた罪を犯したのでしょうか。いいえ。実際、裁判では罪のかけらさえ断定できなかったのです。ではその意味は何でしょうか。

 それは私たちの「救い」をもたらすものでした。先ほどの問4にあるように神から離れた「罪人」である私たち人間の「罪」の刑罰を引き受けて下さったお方が神の御子キリストであり、その罰を受けて下さった場所が十字架だったのです。ですからキリストのことを救い主と呼ぶのです。またそのように人間は神に立ち帰ることが求められています。

 

posted by kbccQandA at 04:48| キリスト教

問 18.キリストが復活したなんて信じられません

聖書の奇跡の中で、「キリストの復活」ほど信じられないことはないでしょう。ですからこの二千年の間、「復活」について様々な解釈がなされてきました。ある人は、弟子達の「作り話」ではないか、と考えます。つまりキリストの弟子達が自分たちの先生が死を打ち破って復活したというデマを飛ばしたというわけです。しかし、もしそうなら、世界中の人たちは嘘を信じ込まされて来たことになります。しかし、人間、死の時に多くの人々を騙して死んでいくことができるでしょうか。実際、筆者は牧師として多くの方の臨終の場面に立ち会って来ましたが、どの人にも共通していることは、死の前には心清くありたいと考えるものです。嘘をついて死んでやろうと考える人はいません。それに、ご存じのように初期キリスト教の弟子達は火あぶりや、獣に食い殺されたりする殉教死をしていますが、そのような苦難の中で、嘘で塗り固められたデマを飛ばして死んでいくことなど到底できないでしょう。 

またある人は現代風に、復活は事実ではなく「象徴」だと考えます。何かシンボリックな表現方法だというのです。しかし聖書は次のように語ります。「もし私たちがこの世にあって、キリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、全ての人の中で一番哀れな者です。しかしキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Iコリント 15:19,20)あのヘンデルのメサイヤで高らかにキリストの復活を歌うのは単なる儚い希望ではないのです。 

posted by kbccQandA at 03:06| キリスト教

問 19.聖書で人間が「罪人」と書いているのが腑に落ちません

確かに「罪人」呼ばわりされる筋合いはないと考える方も多くおられるでしょう。でもその罪の定義が違うのです。一般では「罪」を殺人とか盗みという事をイメージすると思います。しかしそれは刑法上の罪であって、聖書でいう罪は、関係上の罪なのです。もう少し説明すると、人間は両親を通してではありますが、神によって造られた存在です(問7参照)。けれどもその人間が神を無視し、否定したりして神との関係を持たない状態―これを「罪」と読んでいるのです。例えていえば、子供が親を無視し、否定して口も聞かないなら、これ程親にとって悲しく不幸なことはないでしょう。このように神との関係を持たない状態を、「罪」と読んでいるのです。 聖書では「罪」の言葉として原語(ギリシャ語)では「ハマルティア」といい、この意味は「的はずれ」という 。

意味です。つまり神という的をはずして生きている状態のことです。 

posted by kbccQandA at 02:50| キリスト教